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IR・NMR・MS による構造決定: 実践ガイド
未知化合物の構造を,MS・IR・NMR の情報を突き合わせて決めていく流れを,演習と併読できる形でまとめた実践的な入門です。3つの手法は得意分野が違い,単独では決め手を欠くことが多い一方,組み合わせると互いの弱点を補い合います。これは要約であり,各手法の教科書そのものの代わりではありません。
1. 併用による構造決定の流れ
典型的には次の順で情報を積み上げます。まず MS で分子量と,可能なら組成(同位体パターン・窒素則)をつかみ,そこから 不飽和度を計算します。次に IR で官能基(O–H・N–H・C=O・C≡N など,あるかないか)を絞り込みます。最後に NMR で炭素骨格・各水素/炭素の環境・つながりを組み立て,MS の開裂と矛盾しないか確認します。どれか一つで断定せず,すべてが同じ構造を指すかを検証するのが要点です。
2. 不飽和度(DBE, 二重結合等価数)
分子式が分かれば,環と多重結合の総数(不飽和度)を計算できます。CcHhNnOoXx(X はハロゲン)に対して
DBE = c − (h + x)/2 + n/2 + 1
酸素・硫黄は式に影響しません。DBE = 4 以上はしばしば芳香環を示唆します(ベンゼン環は環1+二重結合3で 4)。C=O・C=C・C≡N はそれぞれ 1,2,C≡C は 2 を与えます。IR/NMR で見つけた不飽和が DBE の総数と釣り合うかを確かめると,見落としに気づけます。
3. MS でわかること
分子イオン M⁺ の m/z が公称分子量です。M⁺ の強度は構造で変わり,芳香族など安定な分子では強く,分岐アルコールなどでは弱く(時に消失)なります。窒素則: C・H・O のみなら分子量は偶数,奇数なら窒素を奇数個含みます。同位体: 塩素は M:M+2 ≈ 3:1,臭素は ≈ 1:1,硫黄は M+2 が約 4%。M+1 の相対強度(およそ 1.1% × 炭素数)から炭素数を見積もれます。中性脱離(M からの質量差)とフラグメントイオンから部分構造を読みます(−15=CH₃,−18=H₂O,−28=CO,−31=OCH₃,−45=COOH/m/z 43=CH₃CO⁺,31=CH₂OH⁺,30=CH₂NH₂⁺,77=C₆H₅⁺,91=トロピリウム C₇H₇⁺)。McLafferty 転位(γ 水素をもつカルボニルで特徴的な偶数質量イオン)や,ベンジル位のトロピリウム生成は診断的です。
4. IR でわかること
IR は官能基の有無を素早く判定します。4000–1500 が官能基領域,1500–400 が指紋領域です。まず高波数側で O–H/N–H(3200–3600),三重結合(2100–2260),カルボニル(1650–1780)を拾います。「ある/ない」の判断が特に強力で,たとえば幅広い O–H が無いことはアルコール・酸の否定に使えます。C=O があるかどうか,あるなら位置が何を示すかが,IR の主役です(次節)。
5. NMR でわかること
¹H-NMR は,化学シフト(水素の電子環境)・積分(水素数の比)・多重度(隣接水素の数,n+1 則)から,部分構造とそのつながりを与えます。¹³C-NMR(プロトンデカップリング)は,シグナルの本数=非等価な炭素の種類数として対称性を直接示し,カルボニルなど四級炭素も見えます。¹H で「エチル基(t+q)」「イソプロピル(d+七重)」「一置換ベンゼン(δ7 付近 5H)」のようなパターンを覚えると,一目で部分構造に直結します。
6. なぜ同じ基でもピーク位置が動くのか
「メチルは δ0.9」「C=O は 1715」のような代表値は出発点にすぎません。同じ官能基・同じ結合でも,周囲の環境によって吸収やシフトははっきり動きます。動く理由を理解しておくと,代表値からのズレそのものが構造の手がかりになります。
電子効果(誘起・共鳴)
電気陰性な原子や電子求引基が近いほど,¹H・¹³C は低磁場(大きい δ)へ動きます。メチル基一つとっても,つながる相手で大きく変わります。
| 環境 | ¹H δ の目安 | 効くしくみ |
| CH₃–C(アルカン) | 約 0.9 | 基準に近い |
| CH₃–C=C / CH₃–Ar | 約 1.6 / 2.3 | π 系の異方性・弱い脱遮蔽 |
| CH₃–C=O(アセチル) | 約 2.1 | カルボニルの誘起・異方性 |
| CH₃–N | 約 2.2–3.0 | 窒素の電気陰性度 |
| CH₃–O(メトキシ) | 約 3.3–3.9 | 酸素の強い電気陰性度 |
| CH₃–NO₂ | 約 4.3 | 非常に強い求引 |
効果は加成的で,電気陰性基が複数隣接するほどさらに低磁場へ動きます(例: CH₂Cl₂ > CH₃Cl,CHCl₃ はさらに低磁場)。
共役はカルボニルを下げる
IR の C=O は,共役(隣に C=C や芳香環)があると電子が非局在化して結合次数が下がり,15–40 cm⁻¹ ほど低波数へ動きます。飽和ケトン ≈1715 に対し,アリールケトンや α,β-不飽和ケトンは ≈1680–1690。ベンズアルデヒドの C=O が ≈1700 と,脂肪族アルデヒド ≈1725 より低いのはこのためです。
環ひずみはカルボニルを上げる
環内 C=O は環が小さいほど高波数へ動きます。シクロヘキサノン ≈1715,シクロペンタノン ≈1745,シクロブタノン ≈1780。環ラクトン・環無水物でも同じ傾向です。
| カルボニルの種類 | C=O の目安 / cm⁻¹ |
| 酸ハロゲン化物 | 約 1800 |
| 酸無水物 | 約 1820 と 1760(2 本) |
| エステル | 約 1735–1750 |
| アルデヒド | 約 1725 |
| ケトン(飽和) | 約 1715 |
| カルボン酸(二量体) | 約 1710(幅広 O–H を伴う) |
| アミド | 約 1630–1690 |
| 共役 / 芳香族 C=O | 上記から −15〜40 |
水素結合は O–H・N–H を動かす(濃度・溶媒依存)
遊離の O–H は鋭く高波数(希薄溶液で ≈3600)ですが,水素結合すると幅広く低波数(≈3200–3550)になります。カルボン酸は二量体を作り,2500–3300 に及ぶ非常に幅広い吸収を示します。¹H でも O–H・N–H・COOH は交換性で,濃度・溶媒・温度・D₂O 交換で位置と幅が大きく変わります。分子内水素結合(β-ジケトンのエノールなど)は極端な低磁場(δ11–16)を与えます。
磁気異方性
芳香環の環電流は,環の外側の水素を脱遮蔽し,芳香族 H を δ7–8 に,アルデヒド H を δ9–10 に押し上げます。逆に,アルキンの π 電子は末端 H を遮蔽し δ2–3 に留めます。¹³C でも同様の傾向があり,シフトは「電気陰性度」だけでは説明できません。
7. よくある落とし穴
- 最高 m/z = M⁺ とは限らない— 同位体ピーク(M+1, M+2)や,ときに M+1 付加を M⁺ と誤認しない。
- 同じ m/z でも起源が違う— 例: m/z 29 は CHO⁺ か C₂H₅⁺,m/z 43 は CH₃CO⁺ か C₃H₇⁺。周辺のピークと合わせて判断する。
- 2200–2260 の弱い吸収— C≡N(中程度)と C≡C(弱い,対称アルキンは消失)を強度と位置で区別する。
- 交換性プロトンは可変— O–H/N–H の δ を固定値と思わない。積分・D₂O 交換で確認する。
- 芳香族シフトの重なり— 一置換ベンゼンの 5H はしばしば δ7.2 付近に重なって見え,多重度から置換位置を読むには限界がある。
8. 手早いチェックリスト
- MS で M⁺(分子量)を確定し,窒素則と同位体から組成の手がかりを得る。
- 分子式が絞れたら不飽和度(DBE)を計算し,芳香環・多重結合の見当をつける。
- IR で官能基を「ある/ない」で仕分ける(O–H・N–H・C=O・C≡N)。C=O の位置から種類を絞る。
- ¹³C の本数で対称性を,¹H の積分・多重度で部分構造とつながりを読む。
- 代表値からのズレを,共役・環ひずみ・水素結合・異方性で説明できるか確認する。
- MS の開裂(−15, −18, 43, 91 など)と組み立てた構造が矛盾しないか読み返す。
これらの判断は「個別特訓」「総合解析」で練習できます。「学ぶ」タブには各手法の要点がスペクトル図つきでまとまっています。